i 家族が本主廟に祀られている本主に平安無事を祈る
j 雲龍県天耳井村のペイ族が奉仕する本主「三崇建国鶏足皇帝」と女神
k 天耳井村の本主廟前に神迎え旗を立てて、降臨する諸神を祀る
礼がほどこされる。宋代に郷追儺の中に「打夜狐」の行事が出現し『東京夢華録』の中に次のように記されている。「この月(十二月)、貧乏人の三人の男共が女性神鬼に扮して、ドラや太鼓を叩き、各家を巡って銭を乞い、俗にこれが打夜狐と呼ばれ、またこれは祟りを追い払う方法なり」。このように各家を訪れて厄払い祝福を行う田家楽と上記の記載は多くの点で相似しており、一種の郷追儺の形式ということができる。
一九四九年以前、石門鎮天耳井村で本主迎えの時、一行の前面に四大元師がいて厄払いをしつつ一行を先導しているほかに、茫子と称する(これは音を借りた表記で、意味するところは要検討)の一隊が居る。范子は全て男性で構成されて、一段の扮装は鍋墨を顔に塗り、着物を裏返しにして着て手に太い短い棒を持つ。棒の先端には釘が打ってあり「瓜子」(訳註−スイカやヒマワリの種の蟹一と称す。荘子は本主迎えの一番先頭を歩き、ずうっと棒を振りまわしつつ踊り騒ぎ、大声で叫ぶ。道々で物乞いをし、瓜子の棒で各家のお供え物や小売店の各種食品を奪い取る。この種習俗は典籍に記載の漢代に行われた宮廷大追儺の際、黄門の子弟百余人を選んで「振子」となしタイマツを手にして悪霊悪疫を追い払ったというのはこれと同じである。
雲龍ペイ族の本主崇拝の中には、「収陰兵」という巫儀がある。例えば流行病が大発生し、しかもその病いが女性の発病率の高いものの場合、すぐにそれは本主管轄下の陰兵鬼卒が祟りをなし村里に騒ぎを引き起こしているものとみなした。つまりそれらのものは村中で「嫁探し」をしていたとみなす。人々が病いに罹ったのは鬼魂が人間の身体に依り憑いたためであり、そのために「収陰兵」の巫儀を行う必要があった。祭祀を行う時は村の中に祭壇を設けて巫師が祈鑄して踊り、本主老爺をお祀りして御降臨願い、解き放った陰兵鬼卒を回収してくれるよう祈る。そして巫儀は多勢を引き連れてドラや太鼓を叩いて各家を回り厄払い(収陰兵)を行う。巫師は門
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